合わせ鏡 |
一つの物語が綴られるとき、その正反対の場所にもう一つの物語が存在する。 決して歴史書にその名を残すこともない兵卒達の物語は、吟遊詩人が調べに乗せて語り継ぐことでしかその存在を主張することは出来なかった…… それすらも許されない物語は、この世界に存在する生き物の数だけ生まれては、その姿を深淵へと落としていく…… 春の風が草原に吹く。 標高の高いガルシーダ国は冬の名残を残す冷たい風が吹き荒れていたが、本格的な春の到来を予感させてか、その日の風は昨日までのそれと異なり、心地よい温かさがあった。 そんな風すら凌駕しようとする叱責の声が突然あたりに木霊した。 「ちょっとガラハ!!また訓練さぼったでしょ、バロム将軍が怒ってたわよ!!」 「なんだ、リスティか……」 「何だじゃないでしょ、代わりに怒られるのはあたしなんだからねっ」 草原に寝そべっていたガラハと呼ばれた男は、鞘に収めた愛剣を枕代わりに気持ちのよい転寝に落ちていた所を邪魔されて、不機嫌そうに起き上がる。 長身でがっしりとした体格に似合った剣を持ち、健康的に日焼けした精悍な顔が、その時ばかりはやる気の欠片も感じさせない面倒そうな表情で少女の方を見る。 彼の昼寝を邪魔した少女の名はリスティ、背は低く、長身のガラハと並ぶと更にその差がはっきりとするが、そんな事を気にかける事も無く、はきはきとした口調でガラハを捲くし立てる。いちいち大きなポーズを取る為、ツインテールの髪がそのたびに生き物のように左右になびく。 ガラハとリスティは家が隣同士の幼馴染であったが、年齢は同じ筈なのに何かと説教口調なこの少女をガラハは時に喧嘩をする程疎ましく、時に周囲の人間の視線を気にするほど危なげに感じていた。 「大体、なんでリスティが代わりに怒られるんだよ」 「え……そ……それは……」 リスティはその問いかけに、それまでの喧嘩腰の口調が一瞬にして遮断され、続ける言葉を見つけられずに狼狽する。 彼女の脳裏に先ほどまでの訓練場での会話が走馬灯の如く回帰されていた。 「またガラハはさぼりか、リスティ、お前どうせ将来ガラハの嫁になるのだろ?連帯責任で代わりに叱られてやれ」 「な……将軍、あたし達そんな関係ではありません!!……ライア、ザック、何が可笑しいのよ!!」 (……なんて会話、言えるわけないじゃない……) バロム将軍のそんな冷やかしをガラハに伝えられるわけがなく、困惑したまま支離滅裂な言葉を羅列するリスティを、ガラハは珍しいものを見る目つきで生暖かく見守っていた。 この時ガラハ、リスティ、共に19歳、これより半年後、隣国ヴァーグリア国が侵攻してくることを知る由も無かった。 10月24日 モントリア平原。 ヴァーグリア国軍8万の軍勢が目前にまで迫っていた。 不当なる侵略軍と戦う為に、ガルシーダ国軍の主力部隊が出陣する。 その中に兵卒のガラハ、リスティの姿もあった。 彼達が所属する部隊は左翼の第2陣、バロム部隊と言えば聞こえはいいが、そのバロム将軍は、ガルシーダ国王力将軍の一人であるルクスバル将軍の指揮下に数多く存在する部隊の中の一つの更に下に位置する将であり、歴史書に名を残す将軍の下のそのまた下で働く立場であった。 そこの兵卒に至っては、もはや戦局を決める将軍からすればその名を覚えられる事も無く、命すら戦場の駒としか見られていない小さな存在であった。 「ヴァーグリア国軍め……我が国の領土をこれ以上踏めると思うな!!」 「俺達の故郷をこれ以上荒らされてたまるか、ここで食い止めてやる」 決戦を控え、兵士達の会話も熱が篭り始めていた。 ガラハやリスティもまた他の兵士達同様ヴァーグリア国軍を侵略者と認識し、この戦いでなんとしても撃退するつもりであった。 士気は高い、何よりもガルシーダ国軍はこれまで一度もヴァーグリア国軍に敗れたことは無い。必ず勝てる、兵士達は互いをそう励まし、戦いの機運を高めていた。 一度も敗れていないのなら、何故ヴァーグリア国軍が征旅の末この地に来ているのか、大局を見ることのない兵卒達の視界は、悲しいことにそこまで広くはなかった。 戦いは激化していく。 だが、それは必ずしも互角の戦局を意味するものではなかった。 最初のうちは健闘していたガルシーダ国軍だが、数時間後に一ヶ所の陣が崩れると、決壊した堤防の様に一気に連鎖していく。 最初に敵陣に穴をあけたのは、シーバズルと共に出陣したアルスが指揮する部隊であった。 ヴァーグリア国軍の兵を自らの手足の様に兵を操るアルスは、この日を皮きりに、「投降してきた魔族」から、「ヴァーグリア七将軍と肩を並べる名将」として名声の階段を一気に駆け上がることとなる。 そして数時間後、ガラハは目の前に広がる自国の旗の残骸を凝視させられることとなる。 「なんでだ……なんでだ……俺達が勝っていたんじゃないのかよ……」 開戦当初は迫りくるヴァーグリア国軍を撃退し、更に防衛から攻撃に転じてヴァーグリア国軍の前線を後退させた。 このままいけると誰もが思った。 しかし、突如背後に敵の奇襲部隊が出現し、混乱した所を立ち直った敵軍に押し戻され、気が付けば自分達は完全に包囲されていた。 兵卒は命を糧として戦いに身を投じる。 しかし、戦局の推移など兵卒に把握することは出来ない。 全てを将の判断に委ね、その身さえも預けた結果、最悪の形で裏切られることとなる。 目の前には味方の屍と数刻前まで誇らしげに風を受けていた軍旗の変わり果てた残骸が広がっている。 「なんでだよ……」 ガラハがもう一度叫ぶ、次の瞬間リスティが走りこみ、ガラハと縺れ合って数メートル先にまで転がり込む。その数秒後にガラハが居た場所に数本の矢が突き刺さる。 「ガラハ!!何ぼさっと立ってるのよ!!逃げるのよ、でないと残党狩りがくるわよ!!」 「リスティ……なぁ、教えてくれ……ガルシーダ国軍はこれまで敗北したことのない無敵の軍勢じゃなかったのか?」 「負けたのよ……あたし達は……負けたのよっ……ライアも、ザックも……バロム将軍も……みんな……みんな死んじゃったわよ……だから……早く……早く逃げないと!!」 茫然自失となっていたガラハに馬乗りになったリスティが泣きながら叫び続ける。 夕焼けがやがて辺りを包み込む。 暗闇に乗じてかろうじて帰還に成功した二人、しかし主力部隊が壊滅したガルシーダ国軍は、天然の要塞である本国に全軍を集結させ篭城の構えを見せた。 それに対してヴァーグリア国軍が軍勢を三路に分け、周囲の城を次々と落とし、ガルシーダ本城も篭城の限界を悟り、最後の決戦として決死隊を募りヴァーグリア国軍本陣への突撃を慣行することとなった。 ガラハもその突撃部隊に志願した。 それを知ったリスティは、城のテラスから外の光景を見つめるガラハを見つけ出すと、その元へと駆け寄る。 「何でよっ、何であなたが志願するの……そんな危険な任務に……」 主語を省いた突然の問いかけだが、前後の状況からガラハにはリスティの言葉の意味は容易に察することができた。 「リスティ、これに賭けるしかないんだっ、俺はこの国もこの土地も好きだ、ヴァーグリア国の奴らなんかにここを荒らされたくない……わかってくれ」 興奮のおさまらないリスティは、不平の念を固定化させた口調でガラハに自らの提案を持ちかける。 「なら……あたしも行く……あたし、ガラハみたいに強くないけど、これでも法術の腕は同期の中では自信ある方だったし……」 「駄目だ、お前はここで俺の帰りを待っていてくれ」 しかし、彼女の提案をガラハは推敲すら許さず拒絶した。 「勝手よ……あたしが返事を欲しいときはいつだって知らん顔で……」 リスティが、ガラハの胸を叩きながら泣き続ける。 一瞬返答に窮したガラハ。 いつも一緒にいたのに、リスティの全てをガラハは理解していなかった。 子供の様に泣きじゃくり、手を触れたら壊れてしまいそうな陶器細工にも似たリスティの髪を撫でてやることしかガラハには出来なかった。 「二人の時間を無駄にしてきたよね……あたし達、いつも喧嘩ばかりして……」 泣き疲れたリスティが、ガラハの背中に自らの背中をあわせて寄り添う。 その口調は驚くほど静かで、全ての感情を吐き出した無の状態とも思えた。 「無駄なものか、まだ何も始まっていない、これから本当の時間を積み上げていけばいいんだ……」 ガラハは振り向くと、リスティを抱きしめる。 彼の屈強な体つきでは、本来ならよほど手加減をしなければ小柄なリスティの体を壊してしまいそうに思えた、だが、ガラハは手加減することなくきつくリスティの体を抱きしめた。 リスティもそれに抵抗することなく、その身をガラハに委ねた。 白い月は、その夜だけは、二人のためだけに存在するかの様に月光を妖しく照らし出していた。 「敵の総大将は竜技七将軍ロリスザードだ、その男は自らが前線に出る為に形式上は別の者に総大将を勤めさせている、そこに最後の逆転の可能性がある」 「全軍一丸となってひたすらロリスザードの陣を襲い、なんとしても討ち取る、相手がヴァーグリア国軍全体ならばもはや兵力の差は歴然としている、しかし敵がロリスザード一人ならば我等の勝利は可能だ」 「前線に立ちたいという願望と自信が今回に限っては自らの首を絞めることとなるだろう……この戦いに何としても勝利する、最後に勝つのはガルシーダ国だっ!!」 決死隊を前に、最後の作戦確認が行われ、兵士達はまさに自らの身を死兵と化すべく呪詛の様に与えられた作戦を繰り返し呟いた。 12月13日、首都ガルシーダは最終決戦の戦場となった。 ガルシーダ国軍は7つの小部隊を結成し、一斉に突撃を敢行する。 1つ目の部隊は横合いから矢の雨を受けて出陣してすぐに壊滅した。 2つ目の部隊は重装歩兵に行く手をさえぎられて踏みにじられていった。 3つ目の部隊は伏せていた防衛部隊に動きを封じられ、あとは全滅するまで一方的な攻撃を食らうだけであった。 4つ目の部隊は動かない、既に敗戦後の自分達の処遇を少しでも和らげようとサボタージュを決め込んだ。 5つ目の部隊は後退していく、何のことはない、指揮する者が最初からヴァーグリア国に懐柔されて内応していただけだ。 6つ目の部隊は勇戦するが、手薄と思っていた敵陣から次々と現れる敵軍に完全に疲弊した。 それらの部隊の動き全てを、意図した訳ではないが結果的に陽動とすることで、7つ目の部隊だけはロリスザード陣に肉薄した。 同時刻、ガラハの帰還を信じて城門付近に佇むリスティ。 ひたすら祈る彼女は、そこで門番が普段と異なる人数、異なる場所へと歩く不審な動きに気付く。 皮肉にも、門番の側からリスティに気付くことは無かった、彼女自身が祈りに没頭した為、その気配はかき消され、まるで路傍の石の如く、姿は見えているのにその存在を気にすることが無かったのである。 「あなた達……そこで何をしているの?……門を開ける命令なんか出ていないわよっ!!」 突然の問いかけに今度は門番が驚愕の表情を見せる。 門番が開門の準備をしている事を察知したリスティは、それまでの様子見の口調から、一瞬にして顔色を変えて再確認しようと門番の下へ走り出す。 「……!?」 そのリスティの脇腹に何の前触れも無く激痛が走った。 「……な……に……?」 リスティはその場に倒れ、一度は立ち上がろうとするが、体に力が入ることができず、そこでようやく自らの体を貫く槍が視界に入り、自分の体にいかなる異変が生じたのかを悟った。 「可哀想だが、もう時間がない、下手に騒がれては全てが無駄になるからな」 リスティからは完全に死角となっていた場所から、槍の持ち主である男が姿を現す。 それが、今回の戦いが始まった時からヴァーグリア国に内通を約束する書状を送ったガルシーダ国内に存在する反抗組織の一人だということをリスティは知る由もない。 「ガ……ラ…ハ……ガラ…ハ……たす…け……て……」 焦点のあわなくなった瞳でリスティは必死にガラハの幻影を探そうとする。 しかし、無常にも、涙で歪み始めた世界は、リスティに夢を見る僅かな情をかけることすらなく、彼女の全てを遮断した。 ガラハはひたすらヴァーグリア国のロリスザード陣を目指して走る。 敵兵を4人斬った所までは覚えている、しかし気が付けば両脇を一緒に走っていた味方の姿はもうなくなっている。 左腕に激痛が走った、ふと見ると槍で貫かれている。 関係ない。 目の前に装甲兵が壁となって立ちはだかった。 関係ない。 「ロリスザード……どこだっ!!どこだぁ!!!」 ガラハの視界に一人の剣士が映る。一瞬ロリスザードかと思い剣を構えなおすが、その男の口から発せられた言葉は彼の希望を打ち砕いた。 「我が名はクライニース八将軍が一人フォルガ!!不貞なる者ながらその気迫は賞賛に値する、私が相手をしよう」 一人の剣士が名乗りの後、剣を構えてこっちに走ってくる。 関係ない。 この攻撃を掻い潜ればヴァーグリア国軍の先陣、そこにロリスザードがいる…… 総大将のくせに、戦いがしたくて最前線に出ているだと?……戦いを遊びでやる男を俺は認めない……そんな男に俺が生まれ育ち、リスティとこれからも過ごすガルシーダ国の大地をこれ以上踏ませるわけにはいかない。ここを突破して、奴を討てば全ては終わる……そして俺はリスティの元へ還る……カエ……ル…… そこでガラハの意識は途絶えた。 フォルガの鋭い刃が大気を裂き、ガラハの首はまるで熟した実が樹木から落ちるかの様に鈍い音を立てて地面に転がった。 ガルシーダ国軍の決死隊は、その刃を突き刺すことも叶わず、ここに壊滅した。 歴史に名前を残す将軍達の数多くの犠牲と、その下で散ったその数百倍に及ぶ歴史に名前を残さない者達の屍によって、ガルシーダ国の戦いはここで血で染まった幕を閉じた。 一つの物語が綴られるとき、見るべき角度を変えるだけで、そこにはまるで合わせ鏡の様に様々な横顔が映し出される。 決して歴史書にその名を残すこともない二人の物語は、伝えるべき者も存在せず、そのまま深遠の淵へと姿を消していった。 |