関ヶ原西軍列伝

御剣刹那
ちぇすとーーーー!!!!

御剣神楽
ちぇすと……と言ったら島津義弘です。
徳川家康は島津家の力を高く評価し、とにかく敵に回らない様に細心の注意をはかっていました。そ
して、関ヶ原の戦いが勃発した時、この時点では島津義弘自身も東軍への参戦を考えていた様です。
しかし、結果はそうはなりませんでした……

封牙舞
人の行動は、善意にせよ悪意にせよ、運命という皮肉な歯車からは逃れられないのでしょうか。

御子神黄泉
この戦いの序章は上杉討伐に出向いた家康の軍勢を石田三成が背後から襲うが、これを予知していた徳川軍は反転して決戦に挑む、というものである。

御剣刹那
つまり、徳川方の「伏見城」留守部隊は、石田三成が挙兵することを覚悟の上で留守を務めなくてはならなかった。家康はこの決死の任務に幼い頃から自分を見守り続けてきた老将鳥居元忠を抜擢したのね。

御剣神楽
家康が読んだ通り石田三成は挙兵。まずは伏見城を包囲します。この時島津義弘は手勢を率いて伏見城の援軍に駆けつけたのですが、守将である鳥居元忠は島津軍の入城を拒否、逆に鉄砲を撃ちかけるのです。完全に武士の面目を丸つぶれとなった島津義弘は、そのまま西軍の石田三成側に馳せ参じることとなりました。

御剣刹那
何故、鳥居元忠は島津義弘を拒絶したの?

封牙舞
一般的には家康自身も島津義弘が味方になると期待せず、鳥居元忠への情報伝達に徹底さを欠いていた、または鳥居元忠自身が島津義弘を信頼せず、城を奪う策略かと警戒したという説があります。
最初から死ぬことを覚悟の上で篭城した鳥居元忠が、何もこんな事にお前たちまで付き合う必要はない……と彼らを追い払った。
というのは、私が勝手に考えた説ですが、少し戦国武将を美化しすぎでしょうか?

御剣刹那
伏見城は奮戦むなしく鳥居元忠以下全員が討死、彼を討ち取ったのは雑賀孫市だという伝説もあるけど……雑賀孫市という人物は実在せず、正体は鈴木佐大夫だとか、雑賀の頭領が代々孫市と名乗ったとか、雑賀傭兵伝説を一つにまとめた虚像だとか、色々説があるこの人物、実際のところは誰が討ったのかしら。

御子神黄泉
この様ないきさつから結局西軍に身を置く事となった島津義弘。しかし前哨戦で石田方が敗れると、うろたえた三成は義弘を戦場に取り残したまま西軍本拠地大垣城へと撤退、義弘の軍略でかろうじて島津勢は退却に成功するが、彼は石田三成の軍略の才能のなさに失望する。更に三成は家康の罠にかかってあっさりと大垣城から関ヶ原へと誘き出される。

封牙舞
徳川家康は、石垣城を無視して大坂城へ向かう姿勢を見せ、これに「自分達を無視するか」と怒った三成が関ヶ原へ先回りして迎え撃つ……この策は、かつて徳川家康自身が武田信玄に大敗した時、三方ヶ原へ誘き出された策をそのまま転用しています。
徳川家康は武田信玄を師と思っていたエピソードがいくつかありますが、これはその集大成かもしれませんね。

御剣神楽
こうしてはじまった関ヶ原の戦い、しかし、もはや島津義弘はこの戦いに真剣に取り組む気持ちは持ち合わせていませんでした。彼の軍勢は900、大軍の押し合うこの戦いの中で彼らは不動を貫き、石田三成からの要請も無視、参戦した以上逃げないという意地だけを通してひたすら防衛に徹しました。

御子神黄泉
関ヶ原の戦いに決着が付いた時、島津勢は300にまで討ち減らされていた。
西軍は総崩れとなり次々と西路へと撤退していく、そんな中取り残された島津軍、彼らがとった行動は……死中に活あり、たった300の兵で徳川家康本隊3万に壮絶な特攻を仕掛け、そのまま東路に抜け出るという作戦であった。

御剣刹那
ちぇすとーーーー!!!!

御子神黄泉
この戦いで徳川家康の息子「松平忠吉」は手傷を負い、その傷が元で後に死去、島津軍は島津豊久が義弘を生かすために身代わりとなって討死、敵中突破を果たして生き残った島津勢は結局80人足らずであったという。

封牙舞
結局島津義弘は、その戦才が故に東軍西軍両方から手を差し伸べられ、何かが噛み合わなかった為にこの天下分け目の決戦でサボタージュを決め込むこととなり、最後に島津ここにありの意地を見せて撤退していきました。

御剣神楽
島津義弘の凄みは戦場だけでは終わりません。関ヶ原の戦い後、薩摩領全てをあげて家康と決戦をするという覚悟を決めつつも、それと同時に可能性があるなら和平交渉も行います。しかも、関ヶ原での敵中突破で最も激しく戦った井伊直政(徳川四天王)に交渉の仲立ちを頼むという肝っ玉ぶりを見せました。

御剣刹那
それって……激しく殴りあった後に「お前やるな!」「お前こそ!」って感じに生まれた友情?!

御子神黄泉
家康も黒田官兵衛、加藤清正、鍋島直茂、立花宗茂といった西国の諸将に島津討伐を命じるが、それはあくまでも西軍に参加した武将への一応の制裁というポーズに過ぎず、彼らが島津義弘と好誼があったことは承知のことであった。

御剣刹那
その後、島津義弘の使者として従兄弟の忠長が家康と謁見。そのとき「関ヶ原での無礼はわびる、しかし家康殿を信用はできない」と堂々と本人に述べる等、とにかく意地を通す九州男児の姿は爽快だね。

御剣神楽
結局家督を譲ることで島津家は本領を安堵されることとなるのですが……
時代は移り変わって江戸時代終焉、島津が徳川幕府を討ち滅ぼす大きな力となるのでした……全ては「鳥居元忠の選択」から因縁は始まっていたのでしょうか……

封牙舞
西軍といえば、参謀大谷吉継の存在も忘れてはいけませんね。

御剣神楽
大谷吉継は、幼い頃より秀吉に仕え、秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わしめたほど指揮能力に優れた名将ですね。当時伝染病として恐れられていた皮膚病(ハンセン病)を患っていた為、醜く崩れた顔を白い布で覆い、晩年は目も不自由になり、歩行も困難なほどに悪化していました。

封牙舞
ある茶会で集まった諸将が、お茶を一口ずつ回し飲みした時のことです。病気を持っている吉継が口をつけた茶は、誰もが飲むふりをして避けていました、でも、石田三成だけは何の躊躇もなくそのお茶を飲み、これ以後二人は友誼で結ばれるようになりました。

御剣刹那
大谷吉継は計算と打算が渦巻く戦乱の世にあってまれにみる義の人、石田三成も豊臣家一筋の一途さと忠義に偽りはないから、気があったのかしら。

御子神黄泉
お互いを信頼しているからこそ思った事を濁さず言う事ができたのかもね、まさか関ヶ原の戦いを前に「この戦い、西軍が敗れる……なぜなら三成、お前が総大将だからだ」なんて口にするなんて……くすくす。

御剣神楽
吉継は、三成の人望の無さを知っていました。三成の徹底した冷徹な合理主義は、戦場で血を流して勝利を重ねてきた武将の神経を逆なでする存在でした。
形だけの総大将を毛利輝元とするものの、その本質は変わらず、関ヶ原の戦いはやはり「徳川家康×石田三成」という形で開戦することとなります。

封牙舞
自ら敗北を予見しながら、友情を守り通す為、西軍の旗を掲げる大谷吉継。
2000の兵で松尾山の麓に布陣。その真意は小早川秀秋を警戒してのことでした。大谷吉継は小早川秀秋の裏切りを予測していました、そして、その不安が的中した時、自らが盾となってこの軍勢を食い止める覚悟を決めていた様です。

御子神黄泉
予期した通り小早川秀秋は東軍に寝返り、1万を越す軍勢の矛先を西軍に向けるが、これをたった2000の大谷部隊が数度にわたって押し戻す。
味方と思っていた陣に攻めよと命令された部隊と、一人一人が決死の覚悟で守ろうとする部隊の士気の違いもあるが、既に東軍の軍勢と戦って疲労を蓄えながら反撃に転じて小早川部隊を松尾山まで押し戻し、東軍から派遣されていた奥平貞治を討ち取る。この戦いぶり、まさしく吉継の指揮能力の高さの本領発揮の場面でもある。

御剣神楽
しかし、西軍でありながらここまで静観していた脇坂、朽木、小川、赤座の部隊も便乗して東軍に寝返り、波状攻撃の前についに大谷部隊も壊滅することとなります。

御剣刹那
「三成、地獄で会おうぞ」

御剣神楽
大谷吉継は、最期にそういい残し、乱戦の中自刃して果てました。病に冒された顔を晒される事だけは耐えられぬと、自らの首は家臣によって地中に埋めさせました。

御剣刹那
ねぇ……でもこういう台詞って何で残ってるの?

御剣神楽
そっ、それは……近習の者が聞いて、それを書き記したのではないかしら?
自分しか見ない日記で嘘をつく人はいないから、実は家臣の日記は史書よりも信憑性が高いという説もありますし……。

御剣刹那
でも、信長の「是非もなし」とか……誰が書き残すの?
あの本能寺の変で信長の独り言が聞けたほど至近距離にいた人が生還できたとは思えないんだけどなぁ〜

御剣神楽
あ、そうそう、
ちなみに大谷吉継の娘は、あの真田幸村の妻なのですよ。

御剣刹那
ちょっと、なんで話変えるの?
ねぇ……ちょっと?
(後日、歴史秘話ヒストリアで「信長の近くにいながら、生還できた侍女たちの証言」と説明していました)