武田四名臣

封牙舞
戦国時代には実在したものから、江戸時代以降に講談として作られた架空のものまで、数多くの「柱となった武将」の呼び方が存在します。

御剣神楽
有名なところでは 「美濃三人衆」「武田二十四将」「織田四天王」「尼子十勇士」「龍造寺四天王」……といったところでしょうか。

御子神黄泉
武田二十四将といっても、時代にばらつきがあり、24人が一同に集まる事はありえなかった。これは江戸時代に武将のランキング等を作っているうちに話が盛り上がって創作されたものだね。

御剣刹那
本日はそんな実在と創作入り乱れる肩書きの中から、武田四名臣について語ってみようと思います。

御剣神楽
まずは参考までに、信長の野望での能力を見てみましょう。
武田四名臣 覇王伝 烈風伝 天翔記
政治 戦闘 智謀 采配 政治 戦闘 智謀 采配 政才 戦才 智才
高坂 昌信 80 72 73 87 76 78 82 82 154 168 156
馬場 信房 84 79 71 88 72 84 75 86 160 158 142
内藤 昌豊 83 75 72 84 82 72 77 78 164 148 152
山県 昌景 64 92 53 89 66 90 69 74 140 178 148

御剣刹那
その時代の解釈や新事実発見等もあって能力値はシリーズにより変わるし、あくまでも参考ね。

御子神黄泉
特に光栄は大河ドラマや歴史漫画に影響を受けやすからね、あたしは未だに前田慶次の戦闘力は納得いかないよ。パワーアップキットを購入して一番最初にやるのが「前田慶次の能力を下げる」事だからね。

御剣刹那
あ〜、そういえば「影武者徳川家康」が連載されてた時は、さりげなく徳川秀忠に「暗殺」のスキルがあったよね。

御剣神楽
まるでフォローするかのように「知ってるつもり」で初代と三代目に挟まれた悩める秀忠像がピックアップされた事もありました。

御剣刹那
でも、「知ってるつもり」も、小説上の創作話を史実と混同して、それが歴史だったと間違えたまま構成してた事多かったし……
ん、どちらさま?……あ〜〜れ〜〜〜(黒服軍団に拉致されていく)

封牙舞
え〜っと……他家の四天王「的」武将が、基本的に「戦闘特化タイプ」なのに比べて、武田四名臣の特徴は「文武両道」なところだと思います。高坂昌信は上杉謙信とにらみ合う信濃の最前線基地「海津城」をまかされ、内藤昌豊や山県昌景もそれぞれ前線基地に配備されました。これは、それぞれが領土を託され、単に戦闘能力が高いだけでは勤まらず、統治、内政、特に度重なる出兵に関しての財政管理など、領土を統治するに足りる器をもつ武将という証拠だと思います。

御剣神楽
武田信玄は人は城、人は石垣、人は堀と唱え、人材こそ国を支える柱ということを強調し続けていました。それだけの信頼を受けたからこそ四名臣はそれぞれの役割を果たし、信玄存命中は「戦国最強」の武田家を維持し続けたと思います。

御子神黄泉
しかし、信玄が世を去り、勝頼の代となると、彼ら四名臣と勝頼の間に明らかな溝が生まれ始めた。勝頼の母が諏訪の出だったこともあり、武田家は甲斐衆と信濃衆という派閥が生まれていく。
これは武田家に限ったことではなく、豊臣秀吉の家臣も尾張衆と近江衆という派閥争いがうまれ、これが関ヶ原に大きく響いている。

御剣神楽
勝頼に関しては、派閥争いだけではなく、偉大すぎる父親に対して勝頼がコンプレックスを持っていたのではないか……とも私は思います。

御子神黄泉
父が残した大いなる遺産「家臣」を遠ざけ、自らが築いた家臣団を重宝する様になり、最後は長篠の戦いへと加速していく。
勝頼が無能な武将だったとは思わない、一人の武将としては寧ろ優秀な方だったと思うけど、彼は武田信玄の息子として生まれたという見えない重石を背負わされ、「当主」としての無能さを発揮して自滅していく。

封牙舞
武田四名臣がとった最後の道は……お家に殉じ、信玄の元へ向かう事。
勝頼を何度も諌めるが、遂に聞き入れられなかったこともあり、山県、馬場、内藤は自殺とも思える突撃の末に長篠にて散華、武田家は滅亡への道を歩んでいきます。

御剣神楽
武田信玄は知勇を兼ね備えた武将で、息子が全てを台無しにした……というのが通説ですが、信玄によって追放された父信虎の存在も考えると、寧ろ武田家は蛮勇を売りとする血筋で、信玄の存在の方がこの血筋にあって異端だったのでは……という気もしてきます。

封牙舞
空を見上げる武田四名臣、彼らの胸中には空は何色に見えたのでしょうか……
それでは、今日はこちらを見てお別れしたいと思います。

御剣刹那
「知ってるつもり」のエンディング?!

高坂昌信
武士ではなく農民の出、美少年だった為、信玄の近習として仕える事となる。信玄が昌信に浮気したことを謝る手紙を送ったのはトリビアの泉でも取り上げられた事がある。
容姿だけではなく武将としての才能も開花させ、信濃の海津城を任される。第四次川中島の戦いでは別働隊を率いた。また戦後、敵味方問わず手厚く葬り、上杉方への死者の引渡しも礼を尽くして協力した。
長篠の戦いで大敗した勝頼を出迎えると、衣服・武具を着替えさせて体面を整えさせた。その3年後海津城で病死。
武田家の貴重な資料である「甲陽軍艦」の著者とされているが、一説では箔をつけるために真の作者が高坂昌信の名前を借りたという説もある。
慎重な采配と退却戦における指揮能力の高さから「逃げ弾正」との異名をもつ。

馬場信房
生涯激戦の中に身を置きながら、かすり傷一つ負わず、「不死身の鬼美濃」と呼ばれた。
この「生涯傷一つ」という売り文句は、本多忠勝をはじめとして勇猛な武将に数多く見られる。真実か誇張かは本人のみぞ知る世界だが、猛将というイメージを与えるにはかなりインパクトのある言葉だと思う。
武勇だけではなく国を任せられる器量も持ち、また築城の名手でもあった。
今川家を攻めた時、今川家の貴重な宝物を全て焼き払い、怒った信玄に「後世に略奪者との汚名を受けますぞ」と諫言して信玄を感嘆させた。
長篠の戦いでは撤退を進言するも受け入れられず、戦いに敗れた勝頼を逃がすと自らは織田軍に突撃して戦死、織田家の資料「信長公記」にその突撃の壮絶さは高く称された。

内藤昌豊
信玄の弟信繁と並んで武田家の副将的存在。
上野国箕輪城の城代として上野国方面の経営指揮をとった。また北条家との和睦時に信玄から交渉の全権を委ねられた事もある。
信玄は彼に「普通の手柄ではとても褒美をあたえられないほどの将」と言い、昌豊も「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもの、いたずらに個人の手柄に拘るなど小さいこと」と語った。
昌豊は小荷駄隊の指揮をまかされたこともある、前線で手柄をあげるのと同じくらい自軍の補給を支える事の重要性を信玄も昌豊も熟知していた証拠である。
長篠の戦いで鉄砲部隊に特攻して討死。

山県昌景
信玄の長男義信の反乱事件の時、自らの兄(飯富虎昌)が関与していたのを承知の上で信玄に密告。これにより虎昌の赤備えを受け継ぐと共に、他の家臣への配慮から信玄は彼に山県姓を与えた。
兄を売って出世したという事実を残しながらも、それが陰惨なものではなく、寧ろ「兄よりも主君を選んだ苦悩する昌景の姿」が浮かんでくるのは、彼の経歴がそう思わせるのか……
彼の赴くところ敵なしと言われ、赤備えを率いて各地の戦いに赴く傍ら、行政面でも才能を見せる。
三方ヶ原の戦いでは徳川家康をあと一歩まで追い詰める。
他の名臣と同じく勝頼の代になってからは彼と折り合いが悪くなり、長篠の戦いで撤退を訴えるも聞き入れられず、討死(というよりもはや集団自殺)を覚悟して鉄砲部隊に突撃、全身に銃弾を受けて采配を口にくわえたまま壮絶な最期を遂げる。